混じり気のない自分

昨日書いた記事がものすごくチープに感じたので公開して5分で非公開にした。誰に向けて書いたわけでもないのに、誰に読んで欲しいかうっすらと頭に浮かんでいる自分が嫌だ。でも今朝起きて考え事して今は昨日の記事も公開している。(昨日の記事はこちら

最近どこかで見かけた『人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。』というジョージ・バーナード・ショーの言葉がとても気に入っている。自論なんだけど、理想の〇〇なんていう青い鳥的なものは存在しないと思う。自分の頭の中にある理想を具現化したものを探すよりも、自分でその状態に近づくこと、自分自身を創っていくことこそ人生の本質というか醍醐味のような気がする、少なくとも自分の人生においては。「存在しているけど自分がまだ見つけていないだけ、探す努力が足りていないだけでは?」なんていう自問自答は自分の人生の本質を見誤らせるだけ。なぜならそんな既存のものを見つけたところで、「もっと自分に合うもの・理想的なものがあるはず。」と感じて同じところをグルグル回るだけだから。とはいえ自分を創るということにも際限がない。そもそも自分の完成形なんてあるわけないし。それどころかどんなに自分を創り上げても死ぬときには全てを置いていかなければならない。理想の自分像なんて近づけば近づくほど遠ざかっていくように感じる。けど面白いと感じるのはそのプロセスに置いてベターを積み重ねていく瞬間であると思う。自分を見つけることと自分を創ることの違いは、それを外に求めるか内に求めるかの違いでしかない。偉そうに人生論を語るつもりは毛頭なくて、自分の場合はこうですというのを書いているだけなんでスルーしてください。

なんでそんなこと考えたかと言うと、自分が自分を探しているのか創っているのかときどき分からなくなるから。昨日の記事を書いたあと今日になってみてふと思った。端的に言うと承認欲求を外に求めるか内に求めるかということ。誰かに認められるために何かをやり始めるとグルグル回るだけ。誰にも認められず自分で自分を肯定して何かをやり続けるのは無理があると思うけど、自分を認めてくれている人がいると感じられたら早いうちに自分で自分を認める過程に移らないとそれ以上の成長はない。他人から認められることほど甘くて心地良い快感はないけど、それの虜になってしまうと自分を大きく見せようと話を盛ってしまったり見栄を張るために不必要なものを買ったりしてしまう。その状態にズッポリ浸かってしまうと嘘をついたり自分の話ばかりしたりして下品な人間になる。自分はそんなふうになりたくないので、ハナから自分の話は自分からしないし、聞かれたら話すぐらいのスタンスを徹底して守っている。虚栄心を満たすためだけのお金の使い方は意味が無いと思っているし、何が必要で何が必要じゃないかを見極めるために意図的にモノを捨てたり情報を制限したり他の国に行ってみたりしている。それでも自分は甘ったれなので、なるべくは音信不通であることを心がけている。他人から認められて満足したくないから他人を遠ざける一方で、自分で自分を認める方法にも気を配っている。自分を認める方法で最も悪い手段が他人と比べること。相対的な幸せで満足するとレベルの低いところでグルグル回ることになる。他人に認められるために生きること、他人と比べて満足すること、この二つこそ、”他人の人生を生きる”という言葉の意味するところだと思う。一回きりの人生を満足しようと生きていると、毎日綱渡りしているような感じがする。こっちに傾いたらアウトやなって感じで。昨日今日と二日間で今の自分の足元を確認してた。足を踏み外さないように。

何が言いたいかというと、もう少し甘ったれなところなくしていかなきゃって思っているということ。人と会わない、お金を使わない、情報を取り入れないという生活をもうちょっと徹底したい。人と会って、お金使って、情報を受け入れることをしていると、どうしてもノイズが入るし贅肉がつくし無駄が増える、本質から遠ざかる。禁欲的な生活がカッコイイとかそういうことじゃなくて、自分の純粋な部分を考えるプロセスにどこからも余計なものを入れたり邪魔をされたりしたくないだけ。いろんなものを取り入れる時期、それを醸成させる時期を分けたいだけ。”まともな人間”になってしまわないために、明日からの22歳の一年間はもう少し自分の変態的な部分を開花させたいなと思う。そんなことをずっと考えているけど迷いがあるわけじゃなくて、むしろ現在進行形で実行中だよというのを公言しておく。21歳も終わりということで言葉に残しておこうと思ってブログ書いた。

不眠症と風邪がだいぶ改善されて今日はけっこう元気になったから、穴が開くぐらいサンドバッグ叩いてこよう。

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